戦国折り紙★漆黒の章!戦国折り紙第2弾完成!販売開始
本多忠勝徳川四天王の一人。通称は平八郎。従五位下中務大輔。徳川家武闘派筆頭の猛将で、家康の三河時代から頭角を表す。生涯大小五十余度の戦いをくぐり抜けてもひとつも傷を負わなかったといい、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謡われた徳川家自慢の名将。

雑賀孫市紀州の鉄砲集団・雑賀党の頭領。石山合戦時に本願寺に協力して各地を転戦するが、1577年信長の紀州攻めに遭い降伏。秀吉の紀州攻めの際には太田城へ勧降の使として赴いた。鈴木重秀という説があるが、決定的なものはなくベールに包まれている。

山本勘助本名は晴幸、号は道鬼。活躍を示す確たる資料はないが「甲陽軍鑑」では武田家の軍師・参謀的存在とされ、また築城術にも優れ小諸城などの縄張り(設計)を行ったという。永禄四年の第四次川中島合戦で「きつつきの戦法」を考案するも謙信に見破られ、責任を感じて敵軍中に突入し戦死したと伝えられる。

伊達政宗輝宗の子。仙台藩祖で幼時に右目を失明、独眼竜の異名を持つ奥州の名将。父輝宗の奇禍により家督を相続して以来、奥州の国人衆を次々と攻略、のち秀吉の小田原攻めへの遅参を咎められ、所領を削られた。また南蛮貿 易を企図し家臣の支倉常長をスペインに派遣したことでも知られる。

島津義弘義久の弟で島津家第十八代当主。戦国史上に名高い猛将で、文禄・慶長の役の際にはその無類の強さから「鬼石曼子」と呼ばれ怖れられた。関ヶ原の際にはわずか千五百の軍勢を率いて参陣、世に「島津の前退」と呼ばれるその敵中突破の凄まじさは今もなお語り継がれる。

大谷吉継 刑部少輔を称す。秀吉の近侍から次第に頭角を現し、越前敦賀五万石の城主となる。娘が真田幸村の妻。地味ながらも親友石田三成との義に生き義に殉じた悲運の名将。関ヶ原の際に隣に陣した脇坂安治ら四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。巷説では持病のハンセン氏病が悪化して盲目であったと伝える。

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