日本統治時代の遺物 ソウルの「神社跡」をめぐる
日本統治時代、朝鮮半島にたくさんの神社が創建された。当時京城と呼ばれたソウル市内にも数多くの神社があり、古い地図を見ると朝鮮神宮、京城神社、乃木神社、稲荷(いなり)神社...と次々に見つかる。昭和20年、日本の敗戦を受け、ソウル市内にあった神社はすべて壊されたが、その遺物がわずかに残っている。ソウル市立大学国史学科の鄭在貞(チョン・ジェジョン)教授らの案内でソウル市内の神社跡をめぐった。(ソウル 水沼啓子、写真も)
日本統治時代、ソウル市の中心に位置する南山(標高268メートル)にあった朝鮮全土の総鎮守、朝鮮神宮の跡地をまず目指した。南山は、朝鮮王朝時代は聖なる山とされた場所だ。当時は、京城駅(現・ソウル駅)から拝殿まで参道が続いていたという。
朝鮮には、天皇家の祖先や天皇を祭る神宮が朝鮮神宮のほかに、扶余神宮が創建される予定だったが扶余神宮の方は完成を見ずに日本の敗戦を迎えた。
朝鮮神宮の祭神は、天照大神と明治天皇で、1925年(大正14年)に創建されたが、日本の敗戦により廃座。敗戦直後、汚されることを恐れた神主らが昇神祭を開き、拝殿の中にあった御幣などすべてを自分たちで手で燃やしたという。その後、地元住民らによって敗戦から1週間以内に建物も完全に破壊されたようだ。
ヒルトンホテル近くの急な階段を登ると現在、南山公園となっている広場が現れる。独立運動家、金九の銅像などが建っていた。広場を抜けて素月通りを渡り、急な階段をさらに登った。当時も同じあたりに、境内へと続く階段があったとされる。
階段を登り切るとまた広場が現れ、右手に伊藤博文を暗殺した安重根の記念館、左手にソウル科学教育館があった。この辺からさらに奥に入った所が朝鮮神宮の境内だったという。記念館辺りには社務所があったようだ。
奥までさらに進むと噴水台が現れ、また本殿があったとされる場所には草木が生い茂り、何も残っていなかった。当時は、参道のところどころに献灯や鳥居があり、本殿のほか拝殿など十数個の建物が立ち並んでいたという。しかし、現在は鳥居の台石すら残っておらず、跡形もなく"消された"といった印象を受けた。
当時の資料によると、1940年代には、朝鮮神宮に年間200万人から250万人が参拝したという。1日平均おおよそ5000人から7000人が参拝していたことになり、かなりにぎわっていたとみられる。
1936年、神社規則の改定により「一邑面一神社主義」(村ごとに1つの神社をつくる政策)が打ち出され、朝鮮全土に国家神道の普及が図られることになった。翌年から大々的に神社参拝の強要が始まったとされる。それまでは朝鮮人への参拝は強制されていなかったが、その後年々朝鮮人の参拝が強化されたようだ。
次に向かったのが、朝鮮神宮から下ったところにあった京城神社だ。跡地は一時期、朝鮮を建国したとされる「檀君(タングン)」を祭る「檀君聖祖廟」になり、現在はミッション系の祟義学園が運営する女子大学や中学、高校などが建っている。
朝鮮神宮は国によって創建されたが、京城神社は当時、京城(現・ソウル)に住んでいた日本人たちの寄進によって自主的に創建され、神宮よりもなじみが深かったという。
境内があった場所には、芝生が植えられ、牧師の祈念碑が建てられていた。周辺には、鳥居の台石や当時の石畳とみられるものも残っていた。また、神社への寄進者と思われる日本人名が彫られた石が逆さまになって使われている石段もあった。
大正12(1923)年と記された句碑もグラウンド横に建てられている。この句碑は、グラウンド工事の際、土の中から出てきたという。
祟義学園はもともと平壌にあったが、神社参拝を拒否したため廃校にされた。日本の敗戦後、京城神社があった場所をわざわざ選んで学校を再建したそうだ。
続いて向かったのが、京城神社の近くにあった乃木神社の跡地だ。現在、児童福祉施設が建っており、手水(ちょうず)舎にあったとみられる石造りの水盤がそのまま残っていた。また灯篭(とうろう)や石段に使われていた石材がベンチやテーブルになり、子供たちの遊びになっていた。
最後に、5年ほど前まではあったことが確認されている加藤神社に向かった。南山の南に位置する竜山にあり、当時は鉄道の街として多くの日本人が住んでいたという。
加藤神社は、加藤清正ゆかりの神社だった。加藤清正は、文禄の役で南大門から漢城(現・ソウル)に入城し、首都攻略の先陣を切ったとされる。神社があった場所はちょうど再開発の工事中で、神社は跡形も無くなっていた。
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